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2011-06-07

東支那海1866年…宴の舞★8 福州編

注:一部フィクションです。

★8
1866年6月9日、中国福建省福州。2隻の巨大な竜旗の帆船が東支那海に向けて開洋(出帆)した。


東支那海の順風に大きな帆を上げ、遥か向こうに広がる琉球王国へ誘うのは、琉球王府からの迎えの使者(看針通事)、そして海鳥たち。東方約800キロメートルの海路、順調に進めば1週間ほどで那覇港に到着する。

後年、沖縄の歴史で「最後の御冠船(うかんしん)」と称される清国の2隻の封舟。6月21日那覇入港、そして翌早朝、正使趙新、副使ほか冊封使節500余名登岸。


琉球王国は薩摩の支配下にあって、さまざまな制約を受けていた。しかし清国の冊封体制下にあった琉球は行政、司法、外交など王府の自治や組織は継承されていた。「冊封」とは宗主国に臣と貢を奉じ、代わりに王の任命と領土の維持を賜る関係を呼ぶらしい。清国側からみると琉球国も当時の韓国やベトナムと同じ冊封国のひとつだ。この頃、清国は体外貿易は固く禁じていたがこれら冊封国に対しては許していた。

冊封国は王が亡くなるとその報告、世子(次期王)の許可願い、王位の承認の手続きが必要であった。それぞれ告訃、詔勅、冊封という。現代の感覚からすると非常に想像しにくい関係だ。これらの手続きは琉球王府の出先機関である福州琉球舘と清国の担当部署である礼部が共同で準備を整える。ともに外交施設である。一連の式典は、冊封式を除いて、すべて皇帝のもと北京の紫禁城(故宮)で挙行された。

福州琉球舘から北京まで直線で約1800キロ、那覇(首里)から江戸(東京)までの距離も同様に1800キロ。琉球国は江戸幕府・将軍家の代替わりにも慶賀使を強要されていたから、フットワークの軽さには脱帽するが、本当は難儀だったに違いない。


1865年12月、琉球国王の尚泰は宗主国である清国に前王の告訃と請封を行った。その連絡はただちに福州琉球舘、そして奄美諸島を含む琉球王国のすべての島々と間切に書簡となって届く。

★9
那覇入港の夜、冊封正使趙新は封舟の船首に出て満天の夜空を見上げていた。

TOSHIJIジーファー

投稿:
伊是名のジーファー 2011年6月7日
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