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2011-06-08

東支那海1866年…宴の舞★9

注:一部フィクションです。

★9
那覇入港の夜、冊封正使趙新は封舟の船首に出て満天の夜空を見上げていた。


当時の清国はひとことで言えば「落日の世紀」…であろう。広い国土のいたる所で反乱、紛争が絶えない。さらに英国、仏国などが追い討ちをかける。アヘン戦争1840年、なんとも奇妙な太平天国の乱1851~1864年、またもやアヘン戦争(アロー戦争)1857~1860年…などなど。これらの危機にあって清国政府はまったく機能せず、ほとんどダウン寸前の体たらく…と言っても間違いではなかった。

このような状況にもかかわらず、琉球王府は宗主国清皇帝に請封した。かたや江戸幕府も似たような状況だ。なにか、不思議な現実離れしたドラマを見ているような気がする。


1857年、アロー戦争勃発で英仏軍北京侵入。清皇帝は紫禁城を脱出し、別荘地のある熱河へ逃避行を続ける。同行するのは4歳になる載淳(後の同治帝)とその母、後の西太后だ。このときは農婦に身を落としての決死の逃避行、まさにほうほうの体…情けない姿だった。やがて戦争終結、翌1861年清皇帝崩御。西太后は恭親王と謀ってクーデターを敢行し、ライバルらを素早く粛清した(辛酉の変)。王宮紫禁城に戻ると載淳を瞬時に即位させ(同治帝)、自らが政権の中枢に立った、いや座った。おなじみ簾のシーン、垂簾徳政と美称されるが実際は不気味な簾だったに違いない。


福州の礼部から琉球王府の請封が紫禁城に届いたのは、アロー戦争、太平天国の乱の終息で大陸沿岸部が比較的安定した1866年2月であった。紫禁城の主人は同治帝、そしてその母西太后である。

★10
1866年2月、福州礼部の役人に引率された琉球王府の使者が紫禁城内閣からの指示で北京に待機しているとき、もうひとりの男が福州から北京に向かっていた。

TOSHIJIジーファー

投稿:
伊是名のジーファー 2011年6月8日
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